2018年10月18日(木)
エニアグラムをめぐる随想 その3 リソ&ハドソン
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リソ&ハドソンによる
エニアグラムセミナー
1990年代後半の思い出


 定期的に開催されていたエニアグラムの夜間セミナーに参加するうち、リソ&ハドソンの来日セミナーが開催されると知りました。

 都内で開催された2日間のセミナーに初めて参加したとき、まもなくエニアグラムに関する著書でベストセラーとなった『9つの性格』の著者鈴木秀子氏が、そのころリソ&ハドソンを招聘した団体の会長だったかで、前の席にいらっしゃったと記憶しています。

『9つの性格―エニアグラムで見つかる「本当の自分」と最良の人間関係』(PHP文庫)
 鈴木秀子先生の著書の初版は1997年です。筆者は鈴木秀子氏のエニアグラムについて直接学ぶタイミングを失してしまったので、鈴木氏についてはこれ以上言及できません。

 2日間のワークではなお薄っすらとぼやけた鏡の前にいるような感じで、自分自身の輪郭をとらえきれなかったのですが、それでも『性格のタイプ』の著者らによる直接のワークはとても印象的でした。

 そのころ日本でエニアグラムに出会った多くの人が、その後開催されるようになった5日間の宿泊ワークなどで、より近くでリソ氏のファシリテートを体験し、リソ氏の人間性というか、エニアグラム指導者としての器の深さに魅了されてゆきました。

 もちろん、筆者もその一人です。

 筆者が自分のタイプがこれだと納得したのは、最初に勉強会に参加した団体のファシリテーターの女性が担当していた一日ワークのときでした。

 同じ傾向の人たちがグループになって、ある課題に挑戦するのですが、そのとき筆者はどこのグループにも入れず、あまり心地の良くない孤立感を感じていました。

 そこで、課題には自分一人で取り組むことにしました。エニアグラムに出会う前、ペンネームでカトリックの聖人についての本を書いたことがあります。

聖者伝説―365日、あなたを守護する聖人たちのものがたり【学研:茅 真為著) (elfin books series)
 もうとうに絶版になった本ですが、その本を書くときに3世紀ごろの砂漠の隠修士について調べたことがあります。

 その中に柱の上で暮らしている柱頭行者がいて、ひたすら修行しているのですが、エニアグラムセミナーのときに、その柱頭行者のことが心に浮かび、そこから自分のタイプに思い至るインスピレーションをえることになりました。

 つまり、自分は誰ともつながっていない、インディペンデントであって、互いによりかからない場所にいるイメージです。

 その後、リソ&ハドソン来日セミナーで、当時は山中湖の研修センターで開かれていた5日間セミナーに参加することになりました。

 リソ&ハドソンのエニアグラムは、たんなる性格タイプの分析ではなく、セミナーの中でも個々人の内面の深いところにも届くものであり、霊性的な部分に達するものでした。

 リソ氏はもともとカトリックのイエズス会にいた人です。エニアグラムに出会って、特定の宗教を超えたところで、エニアグラムの知恵を伝えていきたいということから、エニアグラム研究所を創設しました。

 仏教や東洋的な宗教・思想についての理解も深く敬意の念を表しておられました。

 リソの相棒であるラス・ハドソン氏は、グルジェフワークの伝統を踏襲し、もともとはミュージシャンを志したこともあるらしく、リソよりユーモアがある人です。


 

 さて、5日間のセミナーですが、そこで起こった出来事は、筆者にとって忘れられないものとなりました。エニアグラムに出会ったことで、そしてよき師に出会ったことで、その後の人生が大きく変わったと思います。

 もっとも、出会わなければどうなっていたかはわかりませんが。ただ、エニアグラムを深く学んだ人の多くがこう言います。「もし、エニアグラムを知らなかったら、自分自身を知らないまま多くの(心の)とらわれを抱えたまま人生を過ごしただろう」と。
 
 ですが、その一方で、このセミナーがきっかけで、筆者はのちのち、今にして思えば、あれは今でいうパワハラであろうと思われる体験をすることになったのでした。

 それが心の傷となって残ってしまい、今も完全に消えることはありません。こうして当時のことを記録しようとすると、そのことが思い浮かび、エニアグラムの学びに関して、アンビバレントな感情が湧き上がって来るのは否めません。

 ただ、それがどういうことだったのか、その体験を解釈するすべを、エニアグラムの学びが与えてもくれています。じっさい、のちのちのパワハラ体験を帳消しにしても、山中湖周辺のセミナーハウスで開催されたリソ&ハドソンの5日ワークそれ自体は、ほんとうにすばらしいものでした。



 5日間のセミナーに参加した当初、筆者はまだエニアグラムのワークを信頼しきっていたわけではありません。ある特定の価値観や何か、自分にとって相いれないものがあるのか、ないのか、心の中で警戒する部分もなかったとはいえません。

 しかし、すべての参加者に対するリソ&ハドソンの対応は共感的で分け隔てがありません。それでいながら、一般化はせず、個々人に向き合っている。みな、そう感じたことでしょう。

 5日間のセミナーの何日目かの夜、分かち合いの時間がありました。いくつかの自己探求の過程を経て、思い思いに、語りたいことを語る時間です。

 語りたくなった時に、一人が語り、他の人びとは静かに耳を傾け、それが終われば、また静かに誰かが語り始める。それはとても静かな時間でもありました。

 自分はとくに何も語ることはないだろうと思っていた筆者ですが、ある人が語り終えた後、自分の内面から湧き上がる思いが押し寄せてきているのを感じました。

 そうして、心の内を語ったのです。

 すると、筆者自身が予期しなかったことが起こりました。

 参加者の中のある男性が、筆者の話を聞いて号泣されたのです。他の何人かも泣き出しました。

 筆者はその時、何が起こったのかわかりませんでした。

 人の心の中には、封じ込めていた思いがあり、その思いは自覚されることもなく、またケアされることもなく、心の奥底にしまわれている。根源的な欲求と失われた愛、そして孤独…。

 筆者自身が予期していなかった心の内面にある思いが、その静かな時間を共に過ごした人たちの心の奥の方の何かに触れ、共感を呼び起こしたのだということが、筆者にもわかりかけてきました。

 けれども、このことが発端となって、筆者に対するある人の対応がそれ以前とそれ以降とでは全く変わってしまったのです。

 そして、そのことがきっかけとなり、筆者はそこで学び、貢献したいと思っていた、ある団体から離れざるを得なくなったのでした。


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