2020年7月4日(土)
人をタイプに分類する試み 
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人をタイプに分類すること
類型的な、あまりに類型的な。


人をタイプに分けるなんて・・・

人は一人ひとりみな違っていて個性的な存在なのでは?
「人は一人ひとりみな違っていて個性的な存在なのではありませんか?それがどうしてタイプなんかにわけられるのでしょうか?」という問いをよく耳にします。
筆者はエニアグラムのセミナーやワークショップに初めて参加された方の中から、よくこういう質問を受けます。若い人、学生のセミナーなどでは必ずと言っていいほど出る質問です。

その問いには、人をタイプに分類するということについて、なんとなく“嫌な感じ”というか、心理的な抵抗感が感じられます。あるいは微妙な反発・反感のようなものが感じ取れます。なぜなのでしょうか? 私たちは自分を類型ととらえたくない。自分は個人だ。ユニークな個人であるはずだ!

このことについて、アメリカの心理学者ウイリアム・ジェームズは次のように述べています。

「理知が対象をあつかう第一の方法は、その対象を他の対象といっしょにして分類することである。しかし、私たちにとって限りなく重要であって、しかも私たちに畏敬の念をよびさますような対象は、何によらず、特殊なもの、独自なものでなければならぬような感じを私たちにも抱かせるのである。蟹だって、私たちが有無をいわせず無造作に、甲殻類として分類しているのを聞くことができたら、おそらく侮辱された気がして怒りだすことであろう。『おれはそんなものじゃない』、『おれはおれ自身なんだ、ただひとりのおれ自身なのだ』、と蟹は言うことであろう。」(『宗教的経験の諸相』ウィリアム・ジェイムズ著 枡田啓三郎訳 日本教文社)。

分類することで理解できることがある
エニアグラムは心の地図 


人類の歴史を眺めてみても、人間とは何かを知るために、類型としてとらえるのは知的な要請でもあります。エニアグラム教師は、タイプに分類するということについて、よく地図に例えます。エニアグラムは自分を探すための地図であると。地図には目的地へ行くための道案内という役割があります。地図にはいろんな縮尺のものがあります。3000分の1もあれば、5000分の1、10000分の1もあります。自分はいったい何者なのか、自分を知るための地図として、9分の1の縮尺で訪ね歩く。それが「自分探し」のために役立つエニアグラムということになります。

個性化への道をさぐる 人はなお類型的である。

ただ、エニアグラムの目的というのは、人をタイプの枠組みの中にはめ込むことではなく、個性化への道を探るためのものです。だから、タイプが分かったからと言って、どうなの?と。しかし、タイプを理解していないよりは、自分を知れる。人は自分が類型的であることを知らない。類家的な、あまりに類型的な!存在だといってもいいかもしれません。

類型化することによって理解する、カテゴライズするということは、頭の中の思考機能を優位に働いているということになります。思考機能にはカテゴライズすることが含まれているので、思考機能を常に使っている人であれば、類型化にはそれほど抵抗がないでかもしれません。ただ、そのとき類型化の根拠、エビデンスを求める傾向があるかもしれませんが。思考による問いは「人はタイプになんかわけられないんじゃないか」ということではなく「なぜ9タイプなのか、5タイプや6タイプではないのか、その理由と根拠は何なのか?」という問いになるはずです。

感情機能が優位に働いていると、感情的に受け入れられないということがあるかもしれません。じっさい、自分がタイプに分類されることに抵抗感を示すのも、思考機能優位ではなく、どちらかというと感情機能優位の、あるタイプの人に多いのです。自分を個性的で、ほかの人とは違っているという意識の強い人は、カテゴライズされることに不快感を示します。皮肉なことに、自分をことさら個性的とみなす人は、他者を類型化する傾向にあります。

人はまだ十分に個性化していない。エニアグラムの類型論はその個性化していない自我のスタイルをみつけ、そこから、各自が個性化への道を探っていくうえでのツールと考えられます。


テーマ  性格のタイプ
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