2020年1月10日(金)
人はなぜ「囚われ」から抜け出せないのか?
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 昨年末、ある人から「エニアグラムでは、囚われや固着について教えていて、自我に従うと望んでいない事を実現してしまう、とはっきり書いてあるのに、どうしてエニアグラムを長年学んでいても、囚われから抜け出せないことがあるのか、むしろ自我の強化のために、また他人をジャッジするために、エニアグラムを使うようになってしまうことがあるのか、そして、自分たちはどうしてそれに巻き込まれてしまうことがあるのか、そのあたりのことを一年かけて、じっくり解き明かせないか」という提案がありました。ちょうど、2020年のエニアグラムサロンのテーマとワークの内容について考えていた時のことです。

 そこで、今年は「人はなぜ囚われから抜け出せないのか」をテーマにワークを進めていきたいと思い、その概略について簡単な説明文を書きはじめたつもりなのですが、思いのほか原稿がすすまず、収拾がつかなくなり、時間だけが経っていってしまったので、まだ途中ですが、その途中までのところを一度、アップすることにしました。したがって、ここで取り上げている内容は続きが予定されています。
 
エニアグラムの入口にあるもの

「エニアグラムは個人の自己理解や自己成長のための助けとなるものであり、同時に他者理解とよりよいコミュニケーションのための道具となるものです」と言われます。筆者もこれまでそのような言葉で紹介してきました。

「エニアグラムは自己探求のためのツールとして役立つものである」とも言われます。「エニアグラムは心の地図である」とも言わています。筆者もエニアグラムの紹介にそのような表現を用いてきました。

「エニアグラムの体系は古代ギリシャの思想や原始キリスト教、イスラムの神秘主義、仏教や道教など東洋的な思想やインドのヨーガの根底にある思想とも通底するものだ」という紹介のされ方もあります。筆者もそのように紹介してきました。

 そして、このようなエニアグラムについての紹介のされ方は、エニアグラムとはまさにそういうものだということであり、それはこの体系について学ぶほどに確信を強めていくものなのですが、その言葉の意味するものを自らの精神に落とし込むまでには、かなりの時間がかかります。

 わたしたちは自分が何を言っているのか知らずに、その言葉を発していることがあります。筆者もそうで、前に書いたこと、語ったことの内容を、そっくりそのまま同じ言葉で表現したとしても、以前の認識と現在の認識では違っているところがあります。まったく同じ言葉を使っていても、わかってないままに言っていたのだなあと思うこともままあり、赤面のいたりです。願わくは、現在の認識が以前の認識よりも深まっていて欲しいものです。

 さて、エニアグラムとは何なのか、探求しようとすると、誰かの話をそのまま鵜呑みにするわけにはいきません。自分で調べることが必要になってくるでしょう。関連の書籍を読みあさることも、大事かと思います。ネットの情報などは何を参考にしているのか、出典は何か、その情報の出どころはどこなのかを確認する必要もあります。

 本やネットを介して、また知人の話を聞いて、エニアグラムと出会ったら、自らワークショップやセミナーに参加するのもいいでしょう。すでにある程度知っている人から学ぶというのは、エニアグラムにおいては推奨されることです。

 最初にエニアグラムの図を目にした人の中には、エニアグラムについて何かカルト的なものかと警戒することがあります。エニアグラムのワークショップに参加するというと、周りの人から「何かあやしい宗教みたいなものじゃないの?」と言われたことのある人もいるのではないでしょうか。筆者もかつて、友人からそのような反応をされたことがあります。そのような反応はアメリカでも似たようなことがあるようです。

 筆者は最初にリソの本を手に取ったとき、これはいったいどういうものなのか、判断がつきませんでした。心理学ではない、哲学でもない、宗教でもない。ジャンルがわからない。“自己啓発”という言葉で説明する人もいるかもしれませんが、筆者にとっては”自己啓発”という言葉をエニアグラムに当てはめるには、初めからそしていまもなお、どこか違和感があります。

 このなかにわたしがいる

 その一方、エニアグラムに関する本を読んだり、勇気を出してワークショップに参加してみて、これは何かすごいものだという感じを持つ人も多いでしょう。エニアグラムの体系に触れると、この中に自分がいるという感じを持ちます。リソの本などを読めば、自分のことがここに書かれている!と思う人は少なくないでしょう。

 そこから、エニアグラムについてもっと知りたい、より深く学んでみたいと思うようになります。エニアグラムは自分自身に対する理解を深めていくことに役立ちます。そして、いったん、エニアグラムについて、エニアグラムを通して自分自身についての理解が深まると、さらに、より深くコミットしたいと思うようになるものです。そのような魅力がこの知恵の体系にはあります。

 そして、“エニアグラムにハマる”人たちが出てきます。


 けれども、問題はここからです。

 エニアグラムに“囚われる” あるいは”囚われ”のエニアグラム

 エニアグラムを学べば、自分自身について深く理解し、周囲の人との関係もより改善され、自分について理解することは自己成長や自己実現にもつながっていくと期待されます。エニアグラムはわたしたちが自分がどこにいるかを知るための「心の地図」であるだけでなく、真の自己を発見するための道標になるものなのです。

 けれども、そのプロセスを歩んでいるはずなのに、じっさいにはタイプ分けのエニアグラムから一歩も先に進んでいかないということもありえます。

 そこに性格の囚われというものがあります。もし、あなたがすでにエニアグラムを学んでいる人だったとしたら、その周囲にエニアグラムを学んでいるにもかかわらず、性格の囚われが強そうな人がいると思ったことがあるのではないでしょうか。あなたは他人のことをジャッジすべきではないと心得ているつもりでも、やはり囚われが前面に出てしまっているように見える人のことが気になってしまう。ときにはエニアグラムを学んでいるにもかかわらず、「性格丸出し」のような人を不愉快にも思う。「あの人はエニアグラムを学んでいるはずなのに、ちっとも成長していない」と、密かにジャッジしてしまう……。

 それは、あなただけが感じていることなら、自分自身の囚われかもしれないと思えるだけの、まだ謙虚さや客観性があなたの中にも残っているかもしれません。でも、他の人たちもある人に対して、あなたと同じような印象を持っていたら、どうでしょう? 

「やっぱりねえ、あの人は‥…」「エニアグラムを学んでいても人はちっとも成長しないじゃないか」「それどころか、囚われまくっている人がいるじゃないか」と思ってしまうでしょう。他者の囚われは、わたしたち自身の囚われを刺激するものです。

 じっさい、いつまでたっても囚われから解放されない、それどころか囚われが強化されてしまうような事態が、エニアグラムを学ぶことによって起こりえます。それはあなたが思っている、あの人だけの問題ではないかもしれません。

 そこには自我の働きがあります。9つのタイプはそれぞれ特徴的な自我構造を持っています。(「性格」「パーソナリティ」「自我」は、ほぼ同じ意味において用いられています)。自分のタイプを見つけることは、自分の性格の特徴を理解し、自我がどのように働いているかを知ることになります。けれども、自分のタイプを探し理解しようとしているときには、つねにそこに自我そのものが働いているわけです。

 それはパーソナリティそのものの働きです。けれども、エニアグラムが明らかにしているのはパーソナリティの働きそのものなのです。つまり、エニアグラムでの取り組みは、自我の問題を自我自身が扱おうとしているところに、その道の先に進めない困難さがあり、道の先を行くことを阻んでいるものがあるわけです。

 かくして、自らの性格の囚われを理解し、囚われを手放していくはずのものが、むしろ囚われを強化していくものになってしまうのです。


自我はタイプと同一化していたい⁉

 エニアグラムを学ぶことによって、これまで自覚していなかった自分についてのたくさんの気づきが得られます。が、それと同時に、気づきたくないものが浮上する可能性もあります。自我は見たくないものがあるわけです。見たくないものは明るみにもたらされず、自我はそれを認めようとせず、あたかもなかったもののように隠ぺいするほうに落ち着いていくでしょう。そして、自らに都合のいいものだけを取り出してくるのです。それが自我のはかりごとです。

 筆者は自分のタイプにたどり着いたころ、クラウディオ・ナランホの『性格と神経症』の中のタイプ8についての記述を読んで、暗澹たる気持ちになったものです。しかし、そこにはこれはまさしく自分の負の部分について書かれていると思いました。心のダークサイドが浮かび上がってきたのです。

 そこで必要になるのは自らのダークサイドが浮かび上がってきたとき、ダークサイドに触れることになったとき、そこから目を背けず、受け入れることだと思います。それに耐えて保つことです。

 自我には意識的な部分もあればそうでない部分もあります。意識・潜在意識・無意識の層に広がっていると考えられています。さらに自我には超自我と呼ばれる自我の働きがあります。超自我は心の中にあって自分を監視するもの、心の中の声のようなものです。これも無意識の部分になります。リソ&ハドソンは各タイプの心理構造を明らかにし、意識・潜在意識・無意識の層にまたがる超自我の働きを心理構造モデルとして整理しています。

 そういったことを頭で理解するのはそれほど難しいことではありません。しかし、「エニアグラムは頭で理解するのはたやすいけれども、それに習熟するのはとても困難なもの」(トマス・コンドン)です。

 その困難さの要因となっているのが、他ならぬ自我なわけです。

 エニアグラムのタイプはわたしたちがすでにその中に入っている箱に例えられることがあります。タイプを知ることはその箱がどういうものであるのかを知り、箱から出る方法を教えます。箱から出てしまえば、その箱はもはや用済みになってしまうかもしれません。

 もし、自我がその箱だとしたら、エニアグラムで進もうとしている道は、自我にとっては自らの存続が難しくなる恐ろしい道です。

 そこで、自我は自らを欺くことになります。その方法は、ひとつには自分のタイプのある部分に過剰に同一化することによって、他の側面を見ないようにすること。そのタイプの長所や強みとされているような特徴を過剰に押し出す。例えば、タイプ3は人から賞賛されるようなパフォーマンスをするかもしれません。タイプ7はますます自分や物事のポジティブな側面だけに目を向けるようになるかもしれません。タイプ4はますます自分だけが特別だという思いに酔いしれるかもしれません。

 こうして、人はますます自らをもとから入っていた箱の中に押し込めるようなことになっていくわけです。

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