2019年4月10日(水)
エニアグラムをめぐる随想 その9 自分を知れば潜在能力は開花するのか?
img01
自分を知れば”潜在能力”は開花するのか?

「潜在能力」という言葉は、どこか胸ときめかせる響きを持っています。自分自身の中に眠っている、やがて開花するはずの能力。それは何か素晴らしいもので、今の自分とは違う、より高次の存在としての自分が目覚める! 

人によっては、アートや音楽や、創作などの面で自分の才能が認められること、より現実的な社会において能力を発揮し、自らが注目される人間になること、あるいは、人によっては愛を手に入れること、より超能力的なものが開花すること、精神世界とのつながりを体験することなどをイメージするかもしれません。

いずれにせよ、それは「いまの自分」であることの不全感から免れ、「自分が自分であること」の充実感を味わうことのできる体験となるでしょう。

「自分探し」とは、「これが本当の自分」といえるような自己発見の旅という意味合いを含んでいます。そして、エニアグラムはその自分探し、自己発見のためのツールであると考えられたわけです。

自分の”個性”ではなく、自分の”タイプ”を見つけることが、なぜ自己発見につながるのでしょうか? 

エニアグラムの入り口は、”個性”ではなく、”タイプ”=類型です。自分が9つの類型のなかの一つであることを発見するのが、まず第一。

私たちは自分がその身にどんなものをまとっているかも知らずに行動している。ものの見方には特定の認知バイアスがかかり、繰り返し繰り返し同じような感情や気分を体験する。ごくわずかな経験を普遍化する。見たいものだけを見て、見たくないものは見えてもいない・・・。

自分のタイプを知れば、それがわかる。それは実は知ってしまえば、たいへん恥ずかしい経験だったりもします。

しかし、人をタイプに分類することに抵抗感を持つ人も少なくありません。私たちは自分がいくつかのタイプの一つに当てはめられることにどこか不快感を感じるものです。おそらく、どんな人でも自分は他の人とは違うと思っているからなのでしょう。






類型的な、あまりに類型的な!



エニアグラムはその自分が類型的存在であるということに気づかせて!くれるのです。真の個性化というのは、自分が類型的存在であると気づいたところから、始まると言ってもいいでしょう。無意識の思い込み、自己や他者、世界についての思い込み、視野の狭さ、認知の誤りに気づくようになるからです。

それによって、よりリアリティとのつながりを取り戻していく。それによって、本来の自己の内なる方向性が開花し、より現実の社会に適応しやすくなっていく。職業選択にしろ、表現行為にせよ、また対人関係の在り方にしても、自己肯定的な道筋を見出していくことができます。

人は自分で思っているよりも、はるかに類型的であると、筆者は思っています。個性化の道は自らが類型的であることを発見し、類型の枠から解放されていく道筋を見つけるところから始まります。

自分は他の人とは違うと感じている人で、エニアタイプ4の人はとくにタイプにはてはめられるということに抵抗感を示します。そういう人の感想でよく見聞するのが、「自分はもしかしたらタイプ4かもしれないけれど、ほかのタイプ4とは違う」「タイプ4だとしても珍しいタイプ4」「9つのタイプではなくてタイプ10かもしれない」といった感想です。

皮肉な言い方をすれば、上記のような感想を持つ人がただ一人ではなく、大勢いる。エニアグラム的に言えば、9分の1はいるということになります。

真の個性化とは、自意識において、「自分は他の人とは違っている」ということではなく、自分が他の人とは違っていると思っている段階はなお、類型的であるに過ぎないともいえるわけです。

エニアタイプ4について言えば、最初にエニアグラムのタイプについての説明を読んだ人で、自分をタイプ4だと思う人は少なくありません。タイプ4でなくても、です。

なぜなら、「タイプ4:個性を求める人」の自我は”思春期の自我”だからです。多くの人が、自分と他人との違いに戸惑い、自分が理解されないこと、なぜ自分は生きているのか、生きる意味について考えたこと、音楽や小説、絵画などに惹かれ、自分も文章を書いてみたり、楽器を演奏してみたり、作詞作曲してみたり、絵を描いたり、漫画やイラストを描いてみたり、といった経験を持っているものです。

タイプ4は、そういう思春期の自我を大人になっても持ち続けている人といってもいいかもしれません。

芸術家タイプとよばれることもあるタイプ4ですが、自己表現の手段が何であれ、その資質が才能として熟し花開くには、自らが取り組まなければならない課題と長い道のりがあるはずです。

その一方で、タイプ4とは異なる資質を持つ人が、タイプ4的な自己表現にこだわっても、これはなかなか才能が開花しないでしょう。わたしたちは自分のもっている資質を伸ばしていく必要があります。

それが潜在能力を開花させるということにつながるからです。自分が本来の自分の持っている資質を使えるとそこには解放感が伴います。



さて、筆者自身はというと、自分自身のタイプの持つ傾向を理解することによって、タイプ4的思春期の自我の名残である”純文学的呪い”から解放されることになったのでした。

筆者の仕事の出発点には、個性の表現を目指す作家志向のライターやカメラマンの先輩がいました。まさに、個性を表現することに重きを置き、お金のための仕事などはすべきでないといった価値観でした。そういった周りの人たちの価値観に影響され、筆者も「私」を表現するものが書けなければならないと思い込んでいました。

けれども、自分が感じていることや自分の内面を表現することはそれほど面白くもないし、自分の気持ちや感情を表現することもあまり得意ではありませんでした。私小説的なものもめったに面白いとは思えず、むしろ概念的なもの、全体を俯瞰した見方の方が面白く、哲学や神話論的な内容のものに興味を惹かれていました。純文学より、エンターテイメント、SFや広大なファンタジーなども楽しめました。

筆者にとっては、人を個人としてとらえるよりも、類型としてとらえる見方の方が面白いものでした。子供のころから、ある人とある人が似ている、ある人とある人は似ていない、似た人と似た人を一つにしてまとめてみると、似た人と似ていない人の違いがわかるなどということをやっていたからです。

それはさておき、2004年から5年にかけて、筆者がライターとしてやってきた実用書分野での心理テストがベストセラーになってから、筆者は自分の仕事や関心事をそれまでよりも肯定的にとらえることができるようになりました。

エニアグラムはたしかに何が自分に向いているかの気づきを促し、それが仕事にもつながり、人から受け入れられるものになるということを体験したわけです。そこからは、自分のやりたい方法で、自由にエニアグラムの探求ができるようになってきました。

筆者自身だけではなく、エニアグラムを学んだ人のなかで、それぞれに自分の道を見つけて行った人に出会っています。自分が自分であることが束縛ではなく、自分が自分であることが解放につながることがわかれば、おのずと道が開けてくるのではないかと思います。

何であろうと、私たちは人から強制されず、自分であることができるはずなのですから。

筆者のエニアグラムの学びについては、まだその先へと続いていきます。
リソ&ハドソン師の教えやリベラ先生の教えにあった自己探求の道における呼吸法や瞑想についての課題が先延ばしになっていました。個人的なワークにおいて、呼吸法などをエニアグラムの学びに取り入れるようになるまでには、まだしばらく時間がかかりました。












最新の記事