2019年8月9日(金)
エニアグラムをめぐる随想 その10 その道は誰にでも用意されたものではない。
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自己探求のプロセスとしてのエニアグラム


 クラウディオ・ナランホのエニアグラムについて

 グルジェフが西欧社会にもたらしたエニアグラム図に人間の感情的傾向を配置したのはオスカー・イチャーソでした。パーソナリティタイプのエニアグラムは、このイチャーソが創始者とされるのですが、現在、流布しているような形でエニアグラムを基礎づけたのは、チリ出身の精神医学者クラウディオ・ナランホでした。

 クラウディオ・ナランホは、数年前から、Shift Network の有料オンラインセミナー Enneagram Global Summitのスペシャルゲストとして招かれ、スピーチをしていました。これは大変貴重なスピーチです。

 2019年6月に開催された第9回Summitののち、ドクター・ナランホが逝去されたという知らせが、ラス・ハドソン師のSNSによって伝わってきました。これが私たちが聞ける最後のスピーチとなってしまいました。

 筆者は2017年、18年、19年(今年)と続けてグローバルサミットでドクター・ナランホのスピーチを聞きました。英語ですので、簡単に理解できないところもあり、いまも繰り返し文字データと付き合わせながら、自分のなかに落とし込もうとしているところです。彼はそれらのスピーチの中で、大変貴重な内容を語っています。

 日本では1990年代半ばごろより、ドン・リチャード・リソ&ラス・ハドソン両師による国際セミナー・来日ワークが開催されるようになり、当時エニアグラムに関心を持った人々は、筆者も含めて、リソ&ハドソンからエニアグラムを学び、その知恵の奥深さに触れるようになりました。エニアグラムが単なる人をタイプ分けする性格分類法のようなものではないということを、リソ&ハドソンから学んだ人はみな理解したはずです。

 しかし、そのころ、エニアグラムのルーツについては、まだ正確な情報がなかなか得られませんでした。いまでこそ、ネットを介して様々な情報にアクセスできる時代ですが、当時はまだそれほどインターネットが普及していませんでした。筆者が出版社等からパソコンで描いた原稿をメールで送付するよう依頼されるようになったのは1999年あたりからでした。エニアグラムアソシエイツのホームページも1999年の終わりから2000年にかけて、知人のデザイナーの方に作ってもらったものでした。

 筆者はエニアグラムについて、いろいろと調べたいことがあったので、日本で書かれたものではなく、アメリカで書かれた本などの資料が欲しいと思いました。昔は、紀伊国屋書店などで洋書を注文しても、その本が手に届くまでに1か月ぐらいかかっていました。ですが、インターネットの普及で、アメリカのアマゾンから注文できることがわかり、約1週間で注文した本が届いたときには、何かすごく自由になったように感じ、感動したものです。

 ナランホの著書についてはすでに邦訳が一冊出版されていました。邦題は『性格と神経症―エニアグラムによる統合』です。その本も手に入れましたが、エニアグラム初心者にとってはこれはなかなか難解な内容でした。当時の印象では、リソの『性格のタイプ』というタイトルで出ていた本の方が読みやすく、そちらは「自己発見のための」という日本語のサブタイトルにあるように、より啓蒙的なところが感じられました。

 


 意識の覚醒のためのエニアグラムー自己探求は変容をもたらすものでなければならない

 ナランホの『性格と神経症―エニアグラムによる統合』は、自分のタイプとおぼしきところの記述を読むと、ちょっと気が滅入ります。性格のとらわれがたしかに思い当たる形でつきつけられてくるからです。ドクター・ナランホのエニアグラムについてのスタンスというか、彼の思想をある程度理解していなくて、しかもエニアグラムを学び始めてあまり長く経っていない読者には、「きつい」内容といってもいいかもしれません。

 なにしろ、その背景にあるのは自我(ego)=性格とは神経症的であるというのですから。egoは狭い意識レベルにあり、妄想を抱えている…。しかし、その背景にあるナランホの思想には、その本一冊からではなかなか近づくことができませんでした。

 筆者がエニアグラムに出会う前、その前年だったかと思いますが、じつはドクター・ナランホは一度来日しているのです。そのとき、昨年帰天されたホアン・リベラ教授が関わっておられました。その間の事情については、アーカイブにリベラ先生のインタビューを掲載しているので、そちらをご覧ください。

 余談ですが、リベラ先生は、ナランホについてタイプ5かタイプ4であろうとおっしゃっていました。

 エニアグラム研究アーカイブ 2
 クラウディオ・ナランホをめぐって
 理辺良保行(りべら・ほあん)教授に聞く
 

 しかし、浅学な筆者においては、そこから得られた情報のみからは、ナランホの業績と思想についての全体像はまだ見えてきませんでした。ここ数年のEnneagram Global Summitでの、ドクター・ナランホのスペシャルゲストとしてのスピーチを聞くようになってから、再度『性格と神経症』を読み直すことによって、筆者のなかで深く納得のいくところがあり、クリアになった部分があります。文字にすれば、前から言っていることとあまり変わりはないかもしれないのですが、筆者の内面で何かが開けた感じがしています。

 ナランホはオスカー・イチャーソの勧めにより、アリカの砂漠での40日間のワークを体験します。この砂漠での体験がナランホにとって、意識の変容をもたらす体験につながったようです。それはenlightmentという言葉で語られています。「悟り」ないしは「真の自己への気づき」とでもいうべきものです。意識の覚醒に至る体験といってもいいかもしれません。ナランホを砂漠での体験へと促した真の動機は、彼の個人的な体験にあったようですが、そのことについては公に語られているかどうかわからないので、ここでは具体的なことは省略します。

 ナランホはSAT(SeekerAfter Truth)プログラムと呼ぶプログラムを作り上げ、彼のもとに集まった人々にその内容を伝え始めます。ナランホはSATプログラムには、イチャーソからインスパイアされたものだけではなく、グルジェフからインスピレーションを得たものや、仏教的な瞑想やヨーガの思想などが組み込まれていると述べています。

 ナランホは彼のエニアグラムがイチャーソの考えたものをそのまま踏襲したものではないということを強調しています。また自分はエニアグラムだけに強い関心を抱いていたわけではないということも強調しています。

 エニアグラムはグルジェフの「第四の道」の一部に過ぎないということです。エニアグラムは価値あるリソースだが、エニアグラムがすべてではないというわけです。ナランホによれば「悟り」へと導かれるような探求のプロセスには、より多元的なアプローチ、チャレンジが必要になってきます。

 ナランホは『性格と神経症』のなかで、ドン・リチャード・リソのエニアグラムについて、評価しながらも全面的に賛成できない部分もあると述べています。しかし、リソ(&ハドソン)のエニアグラムは直接彼のワークに参加したことのある人ならだれでも知っているように、単にそれが自己理解や他者理解を促す性格分類法ではなく、古代から伝わるスピリチュアルな伝統に通じる非常に奥深い知恵であることを知らしめてくれたのでした。
 
 囚われや固着についての考え方に、いくらか違いはあるにせよ、それはナランホとイチャーソの考え方にも、いくらか食い違いがあったのと同様、着目すべき見解ではあるけれども、エニアグラムがなんであるかということにおいては、さしたる食い違いがあるわけでなく、どちらを採用すべきかはエニアグラム研究者の考え方に任せられるのではないかと思います。



 「どうして変わらなきゃいけないの?」と問う人に、エニアグラムはおススメしない。

 さて、ナランホに話を戻して、ドクター・ナランホは、自己探求の道は誰でもが通る道ではないと述べています。自己探求Self-Knowledge は認知cognitiveのプロセスではなく、変容をもたらすtransformativeものであると。それはレクチャーを受けてわかるというようなものではないということです。

 もちろんパーソナリティへの理解を深めることは重要ですが、個人がより深いところで自己を実現していく。探求の道は、狭く限られた意識的自我の妄想を手放し、ほの暗い無意識のなかに埋没する自己を意識の上に引き上げてくること。自我を超えた、より高次の意識状態へと変容していくことになります。眠りから覚めるように…。それがEnlightenment「悟り」、また「真の自己」とのつながりを回復するということにもなりますが、このようなプロセスは、誰にでもすすめられるものではありません。進めたからと言って、誰でもがその道を歩もうとするわけでもありません。

 より高次の意識状態への変容、真の自己の探求といったことは、古代から仏教的瞑想やインドのヨーガ修行などでも踏襲されてきたものであります。
 
 エニアグラムの実践的ワークに加え、瞑想やヨーガの実践を取り入れることによって、自己探求の道はより高次のプロセスへとつながっていきます。エニアグラムにははじめからそういったものが組み込まれていたのです。しかし、1990年代日本に伝わったエニアグラムにかんして、すでにファシリテーターと名乗っていた人の中にもそこまで対応できた人はいなかったかと思います。

 日本にエニアグラムを紹介した鈴木秀子元聖心女子大教授は、カトリックのシスターであったことこから、どちらかというとキリスト教的霊性に基づいてエニアグラムを教えておられたのではないかと思います。

 筆者は6年前から、ヨーガと瞑想的ヨーガの実践を行っています。かつて、故リベラ先生へのインタビューで、瞑想の必要性を指摘されながらも、エニアグラムとのつながりでどのように瞑想を生かせるのか、理解できていなかった筆者は、遅きに失するとはいえ、探求のプロセスをわずかに一歩、深めていく時期に達しました。

 自己探求の道は誰にでもおススメするものではありません。それは個々人の内的必然によって求められるものです。私たちが何を目指しているのか、エニアグラムの目的を、まったく理解できない人もいます。タイプ分けで、自分やあの人この人が何タイプだというところにとどまる人もいます。それはそれでいいわけですが、私たちの目指しているものとは違います。その人たちには別の人生があることでしょう。

 探求のプロセスは、人をきらきらした成功者にするわけでも、皆から注目される人物にするわけでもありません。また、うまく社会に適応できないことを嘆く人のための、愚痴の道具であるわけでもありません。エニアグラムは自己正当化の道具として用いるべきものではなりません。他人の性格的特徴をあげつらい、タイプのことを言っているという言い訳に隠れた他者非難の道具でもありません。

 自己探求は直接・間接に出会った、同じ道を目指す人との関係性を保ちつつ、孤独の中で歩む道です。孤立すれば、自我の妄想の中に足をすくわれてしまいます。その一方で、表層的な価値観に迎合すれば、本来の自分へと至る道の入り口さえ見失うかもしれません。

 いかなるイデオロギーにも与せず、自己や他者の妄想世界にとりこまれず、ただいまここにいてリアリティとつながり、リアリティを見据えて生きられる時間を生きていくこと。筆者はそんなふうに思っています。

 かつて、わたしたちは、あらゆる人が平等に扱われ、幸せになる権利を尊重され、人類全体の恒久平和が実現され、自然との共存が約束される世界を希求していました。そして、それは実現可能と思われていました。

 ところが、現在の状況はどうでしょうか? いま世界は危機的状況にあります。かつて私たちは人類は霊的な意味でも進化するものと考えていました。けれども、いまその気配は世界のどこにも見当たりません。いつの時代もそういう見方があったという人もいるかもしれませんが、いまや人類全体のとらわれが、地球環境そのものにも影響しています。

 近年のEnneagran Global Summitからも、直接的には語られていないながらも、世界が直面している危機的な状況に対する危惧の念が感じ取れました。そういう時代だからこそ、自己探求の道を行く人は、あきらめずに、よりエネルギッシュに、自らの道をすすまなければならないのだと思います。

 そのように、筆者はクラウディオ・ナランホのエニアグラムを振り返りつつ感じたのでした。
 



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 →エニアグラムの来歴2 イチャーソ、ナランホ
 
 →エニアグラムの来歴3 リソ、カトリックグループ
 
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